佐々木 元

会長挨拶

我が国の情報通信技術の強化に向けて ー 会長就任にあたって ー

佐々木 元

佐々木 元 日本電気(株)/情報処理学会会長

(「情報処理」Vol.48, No.6, pp.547-548(2007)より)

このたび,安西前会長の後を継いで,第24代の会長に就任することになりました.

 情報処理学会が設立された1960年当時の国内の電子計算機の生産高は計算機本体と関連装置合計で約24億円の規模でしたが,直近の2006年には約2兆3,000億円の規模となり電子工業生産合計20.3兆円の11.3%という位置づけになっています.ハードウェアに加えて,ソフトウェアと情報処理サービスを中心とする情報サービス業の年間売上は約14兆円であり,情報関連産業は日本のエレクトロニクスの基幹産業として発展してきたといえます.

 我が国最大の情報通信技術の専門家集団である当学会は,情報関連産業の拡大にもかかわらず,会員の減少が継続しているという大きな問題を抱えています.情報社会が質的な変化を遂げている中で,当学会がより広範囲の人々の期待に応えられるように活動を活発化して,その成果を社会に還元して日本の科学技術イノベーションの推進に貢献できる存在とすることが私に課せられた責務であると受けとめております.

 そのために,安西前会長の示された構想を引き継ぎ,これまで研究中心であった学会のあり方を研究と実業の両方に焦点を置くものに変えていくという方針を実質的な形にしていきたいと思っています.

情報処理技術の進化と課題

 情報処理 (Information Processing)という言葉にはさまざまな定義がありますが,一般的には情報を加工処理して結果としてより付加価値の高い情報を生み出すことと理解されています.1950年代以降のコンピュータ技術の進歩の過程を振り返ってみますと,当初はコンピュータのユーザであった人間が処理プログラムシステムの作成に多くの労力と工数をかけて計算やデータの処理を行っていました.それが1970年代には各種の高級言語や構造的プログラミング手法などの人間側の方法論も開発されてシステムの使いやすさと作りやすさが改善されました.その後,ソフトウェアエンジニアリングの技術革新と音声入力やパターン認識等のマンマシンインタフェースの高度化が進み,人間とコンピュータマシンのギャップを埋めて,システムに知性を与えるソフトウェアの役割が進化してきたわけです.

 その結果,今日では「いつでも,どこでも,誰でもICT(Information and Communication Technology)の恩恵を実感できる社会」が実現されつつあります.たとえば,サービスの高度化としてのATMシステムやPOSシステム,安全・安心の高度化としての指紋や静脈等の生体情報を認識するバイオメトリックシステム,科学技術の高度化としての超高速スーパーコンピュータを駆使した地震の震度分布の解析による災害予測,台風の進路予測,海面変動等の地球現象の高精度なシミュレーションが具現化されて人間社会に貢献しているわけです.

 一方で,世界のインターネット人口の急増によりインターネット・バックボーンで情報のトラフィックの大渋滞が起きる可能性も指摘されており,ネットワークの増強にかかるコストの負担や,ネットワークに大きな影響を及ぼす特定のアプリケーションの利用制限に関するネットワークの中立性が世界的に議論されています.さらに,特定のサイトに対するサイバーアタックやウイルスの対策,インターネットを経由して流出する個人情報の悪用による2次被害の予防といった課題が顕在化しています.

 また,内閣府が日本・アメリカ・韓国・ドイツ・フランスの60歳以上の男女約5,000人を対象に昨年末に実施した「第6回高齢者の生活と意識に関する国際比較調査」の結果を見ますと,電子メールや携帯電話で家族・友人と連絡をとり,インターネットで情報を集めたり,オンラインショッピングをすると答えた高齢者が各国で増加しています.しかしながら,「いずれも使わない」という割合は日本が65%で,アメリカ44%,韓国45%,ドイツ55%,フランス49%に比べて一番高い傾向を示しています.

 言い換えれば,科学技術の発展はディジタルデバイドに代表されるように,その成果を享受できる人間とできない人間を生み出したといえます.21世紀には発展した文明社会を人類全体が共有することが一層重要となりますが,具体的には「人間とは何か」,「進歩とは何か」,「満足とは何か」ということを深く考えて科学技術の独走を抑えて社会・文化面,精神面等の要素をとりいれた科学技術の新しい方向性を構築していくことが必要と考えます.そのためには,すべての人々にとっての「安全・安心」という視点から技術を評価して一定の規制を設けたり,技術革新が自然界に存在していない事象を作り出すことによる,たとえば地球環境の破壊といった負のインパクトをミニマイズしていくことも重要な課題であります.21世紀の技術革新においては,科学者・技術者は技術の進歩に対して夢を語るだけでなく社会に対するリスクを推定するために,人文科学,社会科学,自然科学との融合による共同作業が求められるわけです.

 現在,21世紀の日本社会に新たな活力をもたらし成長に貢献するイノベーションの創造に向けて医薬,工学,情報技術等の分野ごとに2025年までを視野に入れた長期の戦略指針「イノベーション25」が内閣府を中心に策定されています.2月に発表された「イノベーション25」の中間とりまとめをみると,生活者が望む「健康で楽しく,安全で安心な生活を送り,不安のない社会」を国民に還元する社会システムの刷新を目指しています.私は,そのためには人間が主役となって科学技術は必要な場面でそっと手助けする人に優しい役割を演ずることが好ましいと考えます.これを人と情報技術が共生するシンビオティックコンピューティングと定義して,従来の情報システムを人間の生活の豊かさは何かという視点で見直して,「豊かな社会を実現するシンビオティック・イノベーション」を具現化することを目標としています.たとえば,防犯・防災・介護支援機能を備えたセンサロボットが1人暮らしの高齢者を見守って,食生活,薬の飲み忘れや飲み違い,運動,戸締り,電気の消し忘れをチェックしてくれるというシーンが現実になる日は必ずくるでしょう.さらに,ユーザが考えるだけでPCを操作できる脳インタフェースの実用化や,文化の壁を越えたコミュニケーションを可能にする自動翻訳システムによって世界の人と人がつながって知を共創し,地球レベルの問題を解決して未来を開いていくことも夢ではありません.その実現のためにも,情報処理学会が学術と産業の両方の焦点から情報処理技術の種々の課題の解決をリードしていくことが必要です.

学会の課題

 情報処理学会の目的は「コンピュータとコミュニケーションを中心とした情報処理に関する学術,技術の進歩発展と普及啓蒙をはかり,会員相互間および関連学協会との連絡研修の場となり,もって学術,文化ならびに産業の発展に寄与すること」と定款に示されています.

 ご承知の通り,学会というものは科学技術の発展に重要な役割を果たしており,国の科学技術計画法の中でも「研究者の交流の場」として位置付けられ,科学技術の専門家集団としての機能と活性化が求められております.情報処理学会は我が国最大の情報通信技術の専門家集団として,社会の成長に貢献するイノベーションを創出して,技術面で我が国そして世界をリードする役割を担う立場にあると考えます.一方で,企業会員の減少が継続しておりますが,当学会に対する会員の期待と学会活動を通じて得られる成果のギャップによって起きた結果として真摯に受けとめて,その原因を見出し解決していくことが必要であると考えます.「情報を加工処理して結果としてより付加価値の高い情報を生み出す」ための情報処理技術の役割がハードウェア,ソフトウェアからサービスやコンテンツへと広がっております.そのために産業界が求める科学的な理論や手法の研究と同時に成果の情報発信,実証実験の場の創造,必要な標準化活動の推進等がタイムリーに提供されているかどうかを見直すことが急務です.そして,より多くの産業界の人々に,当学会の活動に参加していただけるよう努力しなければなりません.

 さらに次世代の科学技術を担う人材が,学生の「理工系離れ」「情報系離れ」によって育っていないし不足していくという深刻な社会的問題も顕在化しています.その抜本的な対策として見直しが議論されている初等・中等教育においては,情報リテラシーの教育に加えて,ものづくりや実験の時間を増やし,自分でつくり,動かし,あるいは観察することの面白さと感激を体験させることが重要であると思います.また,情報処理技術者のプロフェッションの確立を通じて,その社会的地位の向上を図るとともに,我が国において情報処理技術が魅力ある分野として認識されるように,産学官の連携を含めた諸施策を推進していく必要もあります.

 公益法人制度の改革として昨年6月に新制度への移行に関する略称・整備法が公布されて,平成20年度中に予定されている施行から5年以内に移行することになります.この制度改革により,民間非営利団体である学協会が,制約が少なく柔軟かつ機動的な活動を展開することが可能となり,社会のニーズに対応する多様なサービスを提供し,活力に満ちた社会の維持に大きく貢献できるようになることが期待されております.そのために,学協会も公益目的事業の定義にある「学術および科学技術の振興を目的とする事業」として不特定かつ多数の者の利益の増進に寄与するための変革が求められるわけです.当学会としても運営方針の見直しを含めたタイムリーな準備を進めることが必要と考えます.

 2010年の創立50周年を控えて,我が国の情報通信技術を強化するために情報処理学会が何をするべきか,諸先輩が示された方向性も踏まえてその役割を明確に世の中に示して,アカデミアと産業界の叡智を結集した学会の運営を通じて知的社会基盤にとって重要な存在になれる新たな姿を見せられるように尽力したいと思います.会員皆様のご支援,ご協力を賜りますようお願い申し上げます.

(平成19年4月23日)